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人生しょせん運不運

古山高麗雄の自伝「人生、しょせん運不運」を読んだ。

大正生まれの作家。子供の頃から秀才で、20歳のころ第三高等学校(京大の前身)に合格したが、サボりまくって一年で退学。その後は親の金を女遊びで使い果たすどうしようもない日々を送っていたらしい。「人生、しょせん運不運」の後半部は、その堕落していた頃の様子がかなり詳しく書かれている。

 

私の記憶にのこっているのは、三高を辞めた後、さてこれからどうすればいいのか、私にはまるで方針も方策もなかったこと。再びどこかの学校に入って学生をやる気持はもはやありませんでした。さりとて職に就く気持もない。そういう人間は、結局、無為徒食のルンペンになるしかない。だが、ルンペンだって、いつまで続けられるものやら。もう私には何もありません。三高に在学中の私は、芝居の脚本書きになりたいという気持ちを少しばかり持っていました。けれども、なれると思ってはいませんでした。この日本で、私は何になればいいのでしょうか。何になれるのでしょうか。わかりません。私には、なりたいものもないし、なれるものもない。あるのは、その日暮らしと、空想だけです。

 

あの状態の自分を人に説明することはできなかった。第一、自分のことが自分で分からない。私は自分の信じるものに向かって進んでいるわけではありませんでした。お前は我が強くて嫌なものを拒んで落ちこぼれただけの話さ。自分流の生き方をするために落ちこぼれたのではない、結果がこうなったというだけのことさ。

 

 この国のエリートコースから落ちこぼれてルンペンになったと言え、私の場合は、母に代わってわが家をとりしきっていた長姉が、従来通り仕送りをしてくれる。その仕送りをたちまち娼家通いで費消して、その後はろくに飯も食えないような生活をしている。私はそういう若者でした。

 

後半、ひたすらこういう文章で埋め尽くされている。

無力感が伝わってくる。凄く魅力的な文章だ。

 

でもエリートの落ちこぼれと凡人の落ちこぼれじゃ全然違うから、感情移入とかは出来なかった(共感を狙った文章でもなかった)。自堕落しきっていたとはいえ、京大だし、大成してるし、結局のところまったく別の世界の人だ。

でも「人生は自分の力ではどうにもならない部分がある」という諦観的な人生論には同意する。

人生、しょせん運不運

人生、しょせん運不運